エモの名は。

エモの墓場

喪失の痛み、搾取による相対化、忘却による再生 『ソフィ カル―限局性激痛』展

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 人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第1部、そして、その不幸話を他人に語り、代わりに相手のもっとも辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を癒していく第2部で構成され、鑑賞者に様々な問いを投げかける。

月400時間ほどを捧げ、オフィスラブの思い出が詰まる品川に久々に降り立った。1月5日から原美術館で開始された『ソフィ カル―限局性激痛』を鑑賞するためである。
幸か不幸かその人との恋は、痛烈な失恋を伴うものではなかったが、まだ勤務するであろうオフィスにほんの少しばかりの思いを馳せた。風の強い晴れた冬の日、白っぽい風景の中で1人向かう美術館、というシチュエーションなのだから、少しばかり感傷的になるのは許してほしい。

原美術館は北品川、御殿山に佇む美術館である。周囲になにもない北品川の駅に降り立ち、歩くこと10分程度で到着する。城南五山の一角らしく、目につく建物は短くない時と億の香りを存分にふりまいている。向かうには、品川で降車し、マリオットホテルへの無料シャトルバスを使うのが最も効率的だろう。そうして白い塀に囲まれた「原美術館」の看板を称える、目的の場所にたどり着いた。

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展示物の看板

「幸福の記憶は喪失への序章」だという前提を共有しての鑑賞

『ソフィ カル―限局性激痛』の展示は二部構成で、それぞれ一部が1階、二部が2階の展示場と、物理的にもわかれている。 

一部は日本に留学したカルの92日間の日本留学時の写真と、この後ふられることになる最愛の恋人からの手紙、その恋人へあてたカルの手紙などが並ぶ。そして二部は失恋の痛みを他人に話し、かわりに相手のもっともつらい経験を聞くことで失恋の傷を癒す経過の表現となっている。

私を含め、この展示を見る人は誰も、これが「失恋による痛みとその痛みからの癒し」を表現したものだと知っているし、展示場で渡される作品概要のチラシにも明確にコンセプトが記載されている。

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それらを目にしてスタートするため、「その日」に向かってのカウントダウンを赤いスタンプで押された写真たち(一見なんの変哲もない、他愛もない、ともすれば甘い恋人同士のやりとり)を見るほど、身構える。当然だ。「落ちる」とわかっているジェットコースターのようなものだ。しかし、その確定した未来は予測を裏切られ、第一部は幕を閉じる。
この「結末が明記されており、予測しながら鑑賞しているのに裏切られる」という経験はなかなかに貴重なので、ぜひ実物を見て感じてほしいと思う。予想外の終わりを迎えた第一部に若干の疑問を抱きながら2階への階段を上って二部に入っていくのだが、この1階と2階に物理的に分かれた美術館で展開される点がまたよい。強制的に挟まれる「間」によって自分の中の頭の中が整理されて、「さて第二部へ」という気持ちの整理がついて次に望めるからだ。これは写真集や画集などでは決してわからない事柄で、久々に美術館という場で鑑賞する意味を感じた。

そんなわけで、二部を鑑賞すると、そこでは「おもいっきり気持ちにぶん殴られる」という稀有な経験が待っていた。そこに描かれているのはまぎれもなくカルの失恋と、そこからの回復なのだが、自分自身が経験した「喪失」と重ねざるを得ないため過去への扉が開けられてしまう。まるで「気持ちに殴られる」ようにがつんとショックを受けることとなるのだ。

「あの時の気持ちと変移」が目の前に現れた衝撃

私が「失恋だ」と明確に認識しているのは、18歳の時の恋であるその前にも「彼氏」を得たことはあったが、自分が明確に恋に落ちた相手は初めてだった。そして不幸なことにこっぴどく振られた初めての相手にもなり、両面から記憶に残るには十分だった。

初物づくしなので、わかりやすく記憶に残ったし、それらに物語性を見出した。その恋が生まれたこと、一方通行ではなく双方向になった幸運、恋人として過ごした時間。他人によって浮き沈みして制御不能になる自分の発見、そうやって乱高下する感情。自分と彼にまつわる全てを特別だと信じて自惚れるには十分だった。

自惚れと傲慢と陶酔があったからこそ、相手都合で突然幕が引かれた時はショックであったし、恋人関係の消滅という事実もさることながら、自分が信じた傲慢と自惚れの物語があっけなく散ったことに対する衝撃もあった。しかし同時に、「他人によって心底傷つけられる自分」という新しい発見に、これまた物語性を感じるという、傲慢の上塗りがあった。恥ずかしい限りである。

「こんなにショックを受けるということは、特別なのではないだろうか?」そんな疑問が頭をもたげ、ぐずぐずと思考のどうどう巡りをした。
 
とはいえ、傷ついているのも事実で、愛だの恋だのという幻想がガシャンと壊れた悲しみに浸り続けるのはつらくてつらくて、何かに縋ってつらさから浮上したかった。そのつらさからどうにか浮上するためには、あんなに固執していた「特別」という気持ちを「失恋は誰にでもあることだ」とか「初恋は実らない」といった一般論で希釈することはもちろん、「もっと苦しい人間はいる」「明日死ぬほど追い詰められているわけではない」だとかいう、実に陳腐でみっともない、苦しみとつらさの相対評価を実施したのだ。
 

そんな、15年も前の色合わせた「忘れたくない、しかし忘れたい、そして忘れていく」という矛盾した気持ちの経過が、カルの表現によって実際に「作品」として目の前に現れてただただ驚き頭を抱える羽目になった。


自分が楽になるために、他人を利用する露悪との対面

作品紹介にもあるように彼女は「失恋の痛み」を癒すために、自分の失恋話を語るかわりに他人の最もつらい話を聞く。これらは、「XX日前、愛している男に捨てられた。」で始まるカルの失恋日記と、他人の「人生最悪の日」のエピソードを綴ったタペストリーと写真が交互に展示される形で表現されている。

他人の「人生最悪の日」は、失恋とは違った様々な角度からの「最悪」の羅列のため、それぞれのエピソードもまた重くずしっと心がやられる。カルの失恋日記は、他人の鮮明な「人生最悪の日」に比べ、日数経過と共に明らかに劣化していく。それは時間と、他人の最悪との相対評価による感情の希釈の双方が影響しているのだろう。

この「他人の不幸話を次々と聞いて、自分の不幸と比較し、相対評価によってつらさを癒す」という作業は、「癒し」という美しい単語で表現されるべき行為ではなく、搾取といえる。こうやって、えげつないほどのリアルを目の前に出され、しかもそのテーマが「失恋」という多く人間が体験する、珍しくもない事柄によって見せ付けられると、振り替えざるをえない。「自分が楽になるために他人を利用しなかったか?」という恐ろしい命題と。

事の大小や深浅に差はあれど、人間は生きるために他人を搾取し、利用し、踏み台にして生汚くなる場面に出くわす。でも、他人と比べて自分を「そこまで酷くない」と慰める行為は、どんなに取り繕っても卑しい行為で、他人を利用した利己的な行動や考え方なのだというを、日を重ねる中で具体性を失い薄くなる失恋時の記録を見ながら実感する。「誰かの不幸を糧に自分を再生するというのは、卑しいこと」という現実を突きつけられる。立ち直る過程において必要な卑しさでもあるんですよ・・・という「自覚があるから許してくれ」というあの日の言い訳を木っ端微塵にするような展示であった。

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