人生最悪の日までの出来事を最愛の人への手紙と写真とで綴った第
1部、そして、その不幸話を他人に語り、代わりに相手のもっとも 辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を癒していく第2部で構成さ れ、鑑賞者に様々な問いを投げかける。
原美術館は北品川、御殿山に佇む美術館である。周囲になにもない
「幸福の記憶は喪失への序章」だという前提を共有しての鑑賞
『ソフィ カル―限局性激痛』の展示は二部構成で、それぞれ一部が1階、二部が2階の展示場と、物理的にも
一部は日本に留学したカルの92日間の日本留学時の写真と、この後ふられることになる最愛の恋人からの手紙、その
私を含め、この展示を見る人は誰も、これが「失恋による痛みとその痛みからの癒し」を表現したものだと知って
それらを目にしてスタートするため、「その日」に向かってのカウントダウンを赤いスタンプで押された写真たち(一見なんの変哲もない、他愛もない、ともすれば甘
この「結末が明記されており、予測しながら鑑賞しているのに裏切ら
そんなわけで、二部を鑑賞すると、そこでは「おもいっきり気持ちにぶん殴られる」という稀有な経験が待っていた。そこに描かれているのはまぎれもなくカルの失恋と、そこからの回復なのだが、自分自身が経験した「喪失」と重ねざるを得ないため過去への扉が開けられてしまう。まるで「気持ちに殴られる」ようにがつんとショックを受けることとなるのだ。
「あの時の気持ちと変移」が目の前に現れた衝撃
初物づくしなので、わかりやすく記憶に残ったし、それらに物語性を見出した。その
自惚れと傲慢と陶酔があったからこそ、相手都合で突然幕が引かれた
「こんなにショックを受けるということは、特別なのではないだろうか?」そんな疑問が頭をもたげ、ぐずぐずと思考のどうどう巡りをした。
そんな、15年も前の色合わせた「忘れたくない、しかし忘れたい
自分が楽になるために、他人を利用する露悪との対面
作品紹介にもあるように彼女は「失恋の痛み」を癒すために、自分の失恋話を語るかわりに他人の最もつらい話を聞く。これらは、「XX日前、愛している男に捨てられた。」で始まるカルの失恋日記と、他人の「人生最悪の日」のエピソードを綴ったタペストリーと写真が交互に展示される形で表現されている。
他人の「人生最悪の日」は、失恋とは違った様々な角度からの「最悪」の羅列のため、それぞれのエピソードもまた重くずしっと心がやられる。カルの失恋日記は、他人の鮮明な「人生最悪の日」に比べ、日数経過と共に明らかに劣化していく。それは時間と、他人の最悪との相対評価による感情の希釈の双方が影響しているのだろう。
この「他人の不幸話を次々と聞いて、自分の不幸と比較し、相対評価によってつらさを癒す」という作業は、「癒し」という美しい単語で表現されるべき行為ではなく、搾取といえる。こうやって、えげつないほどのリアルを目の前に出され、しかもそのテーマが「失恋」という多く人間が体験する、珍しくもない事柄によって見せ付けられると、振り替えざるをえない。「自分が楽になるために他人を利用しなかったか?」という恐ろしい命題と。
事の大小や深浅に差はあれど、人間は生きるために他人を搾取し、利用し、踏み台にして生汚くなる場面に出くわす。でも、他人と比べて自分を「そこまで酷くない」と慰める行為は、どんなに取り繕っても卑しい行為で、他人を利用した利己的な行動や考え方なのだというを、日を重ねる中で具体性を失い薄くなる失恋時の記録を見ながら実感する。「誰かの不幸を糧に自分を再生するというのは、卑しいこと」という現実を突きつけられる。立ち直る過程において必要な卑しさでもあるんですよ・・・という「自覚があるから許してくれ」というあの日の言い訳を木っ端微塵にするような展示であった。
Twitterに流した当日の感想
『ソフィ カル―限局性激痛』に行ってきたんですけど、失恋という喪失によるショックと、忘却による再生というのをこれでもかと見せつけられましたね。
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019
私があれは「失恋だ」と明確に認識しているのは18歳の時のことなのですけれども、つまりはその恋と、恋人にまつわる事柄と、自分の感情と、彼との関係の全てを特別だと信じて自惚れていて、ある日それがなくなるんだけど、そのショックにすら物語性を感じる傲慢さみたいなものがあって
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019
しかし、茫然自失として全てを記録して記憶して特別なものとして持っていたままでいたいのに、立ち直るにはそれらを平準化して忘れるしかない、みたな矛盾した感情の経過を可視化して見せつけられるとは思わなかったよ
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019
約15年前の初恋と失恋の記憶が、蘇えらさざるを得ないといのは作品の力なのだけど、もっと鮮烈な失恋の記憶がある状態で見ていたら張り裂けるくらいの感情を抱えて明日は会社にいけないまであったなと思うなどした。今その激痛を味会わなくて済むのは、幸福なのか不幸なのかは不明である。
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019
自分の傷心を癒すために他人の「つらい話」を彼女は集めるんだけど、これは失恋に限らず私もやったことがある。自分の傷を癒すために他人を踏み台にして、誰かを下に見て「だからまだ大丈夫」と慰める卑しい行為なんですけど、その自覚があっても、それを可視化されて見せつけられると言葉を失うね
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019
誰かの不幸を糧に自分を再生するというのは、卑しいことなんですよ。それはわかっているけれど、人が立ち直る過程において必要な卑しさでもあるんですよ。という「自覚があるから許してくれ」というあの日の言い訳が、目の前に並んでるという恐ろしさね。
— ぱぴこ (@inucococo) January 9, 2019