先日twitterで流れてきたコラムを読んでみたら、古き良き時代から脈々と続く「愛される小悪魔」論が展開されていた。
「かわいく男を振り回すいい女になる方法」的なコラムを読んでしまい、「2000代前半に小悪魔な女になるって本流行ったけど、今平成最後の夏も終わるのに平気?」って首を傾げた。 pic.twitter.com/xLTLVRP1Oa
— ぱぴこ (@inucococo) 2018年9月10日
「自己主張する」「失礼な態度に怒る」というのは非常に大切なので全ての女子は肝に命じて欲しいのだが、単純な態度という趣旨を越えて「こうしたら男(女)はめろめろに☆」という主張、本末転倒感がすごい。結局相手に合わせたコミュニケーションでしかなく、自己が主体でないではないか。
— ぱぴこ (@inucococo) 2018年9月10日
で、ちょっと思ったのでつらつらと。
なぜ女のモテ論は「~される」という受動態が基本なのか
件のコラムに限らず、女性誌や広告に恋愛の話が並ぶ時、総じて「愛される女」「選ばれる女」「本気にされる女」という受動態の表現が並ぶ。
「妻は添え物」という限りない主張を見せてくれるVERY様
まるで主導権や選ぶ権利が相手にあり、それをいかに引き出すかが女性の魅力だといわんばかりの表現には正直かちんとくる。
これはセクハラ問題が起こった時に定期的に話題になる「女は男を転がしてなんぼ、いちいち騒ぎたてないで笑顔で自分の思い通りにころがせばいい」という言説につながっていく悪しき風習だと思うし、平成も終わろうというタイミングでなんでそんなに昭和なの?それをなぜ若い世代に踏襲させようとするの?という疑問符で脳がうまる。
下記の記事でも吠えたのだが、男の理想の女を演じる・見せてやることでお前はいいかもしれないが、周りが迷惑案件の1つだ。
色気というものが「受け身」や「隠された」ものに宿るのは同意だし、それを引き出したいという要望があるのはわかるが、目的を「自分が色気のある女になりたい」とするのと「色気のある女になって男に愛されたい」とするのではマインドセットが全然違う。
主語を「私」にしない問題点
ではこの「受動態の思考」の何が問題かというと、「私」という自分を主語にし、自分の満足のために意思決定をするという当たり前のことを当たり前にやっていないと、すぐ誰かに利用されて付け入られる点だ。
- かわいくなりたい
- モテたい
- 愛し愛される関係を築きたい
これらの欲望自体が問題なわけではない。
ただこれらを実行しようとしたときに「相手にいかに気に入られるか」という相手の出方に合わせた意思決定をしていると、他人の評価でしか自分を愛せない、自信のない他人軸の女があっという間にできあがる。
そして世界は「他人軸」の人間をうまく利用しようとしたり顔で迫ってくるし、それが「女」という性であったときに利用しやすさ・活用しやすさは各段にあがるのげ現実だろう。
愛される女は都合のいい女と紙一重…というか、十中八九そう
しかし、世の中には「愛される女」キャンペーンがはびこっているので、うら若き女性陣は「愛される」女になるために、こんなことをしらずに刷り込まれる
- 男はプライドの生き物、だから彼のプライドを傷つけちゃダメ★
- 男はいつまでも子供、だから行動にイチイチ目くじらをたてちゃダメ★
- 男は闘争心の生き物、だから彼を立ててわざと「負け」てあげて★
うるせぇ。
でも、世の中の9割のモテ本は上記のような態度やマインドを求めてくる。
曰く「がみがみ言わず」「笑顔でころがして」「最終的に自分がいないとだめだ」と思わせるのがいい女だと。
私は家政婦でも母親でもないのだが?恋人には対等な人間が欲しいのだが?
と秒速で反論したくなるが、「これ」が正しいという価値観を知らずに刷り込まれると迎合するべきなのか?その態度を取れないから自分が「いい女」になれないのか?と悩む場面には人生のどこかでぶつかる。が、無視して。無視するんだ。
このキャンペーンを受け入れると、あっという間に都合のいい女ができあがる。いい女、「愛される女」とはたいてい男のエゴとわがままを満たすための虚像であり、そんなことしても愛されるどころが代替可能なポケットティッシュ程度の扱いしか受けない。
「この子は自分を受け入れてくれる」という感覚と「この子に何をしても平気」という感覚は恐ろしいことに本当にすぐ近くにあるのだ。お互いがお互いを尊敬し、尊重した上でないと、このボーダーは簡単に超えられてしまうし、その匙加減を「愛される女講座」では教えてくれない。
そのテクニックを信じて従順に従うタイプの女子よ、君たちはそのテクニックを身に着けることはないと思え。
「~される」という受動を目指すな。「~する」という主体を目指せ
私が言いたいことは「選ばれる」なんてことを目指すな、「選んで」いけ、なんなら「選ばせる」気持ちでいけ、ということだ。
思考の癖は行動に現れ、行動の癖は人生に現れる。
これは結構怖いことなのだ。
決断するというのは大変だし、自分で自分にGOを出すのも大変である。
古くからあるシンデレラストーリーに乗りたくなったり、白馬の王子様に「選ばれ」たくなる瞬間はあると思う。私も石油王に選ばれたいし、代々木上原の地主の相続先に選ばれたい(具体的)
だけど、常に「だれか」の意思決定を待つ側になってはいけない。
ただでさえこの国では女は従順で、主張せず、男より秀でないように様々なトラップを仕掛けられているのだ。こんなこと言いたくなかったが、実際に東京医大の件なので「見えないどころか張り巡らされた天井」があることが露見してしまったこんな世で、「選んでもらう」なんて態度でいたらいけない。
それは自分の意思決定を捨て、他人に寄生する考え方だから。そして他人に寄生していると、人は自分の人生を生きず、楽した分だけ「利用される」という形で食いつぶされるから。